「ザ・マジックアワー」を見て気づいた、「ベースとなる文化」の影響力

雨降る新宿、マルイシティのバルト9まで三谷幸喜「ザ・マジックアワー」を見に行ってきたYO!

天気のせいなのか、日曜日だからなのか、バルト9は芋洗い状態。こんな日に一人乗り込んだ私は生粋のAHOなんじゃないかと真剣に考えてみたが、おひとりさまのおかげか希望の上映回のラストワン・チケットをゲットして無事に鑑賞できたので良しとする。(まあ、鑑賞後すぐに感動を共有できないのは少しもったいないのだが。)


ネタバレになるので、ストーリーに対する細かい感想は控えるが、全体評価としては「★★★★☆」くらい。
「THE・有頂天ホテル」がイマイチだったので不安だったが、純粋に笑えたし、楽しめた。ストーリー展開は「間違いの喜劇」の王道を突き進んでいて、もうコッテコテで先も読めるほど。しかし、そのコテコテっぷりが潔く、且つ期待通りの方向性で期待以上に笑わせる演出をしてくれているので全く気にならないし、むしろ笑えてくる。そういう意味では、ほんとうに「三谷幸喜らしい」作品だなぁ…と感じた。


ところで、三谷幸喜松尾スズキ、そして宮藤官九郎といった「舞台畑」の監督の作品は、所謂一般の「映画畑」の監督の作品とは違ったトーンを持っていると思う。

どう違うのかといったら、至極明快、「舞台っぽい」のだ。映画館でスクリーンを見ているのに、なぜか劇場でステージを見ている錯覚に確実に陥ってしまう。
おそらく、場転のタイミングであったり、ストーリーのテンポ、抑揚の流れが「2時間モノ舞台」を基準に作られているからだと思う。勿論、「映画」というリテイクの利く事前撮りであることや場所や効果の制約がないことから、アクションであったりセットであったり特殊効果であったり、舞台では不可能な肉付けはされている。しかし、はやり骨格は「舞台」なのだ。

「そりゃもともと舞台人なんだからそうだろう」と言ってしまえばそれまでなのだが、つまりは「アウトプット方法は違えど、ベースとする文化は色濃く反映される」ということなのだろう。アニメ監督の映画はやはり「アニメっぽい」し、俳人の書く小説は「俳句っぽい」し、もっと言うならば営業マンのくどき文句は「営業っぽい」のだ。


ひとは案外、自分のバックボーンを露呈して生きている。表現活動となればなおさらそうだし、ビジネスだろうと子育てだろうと、意識せずとも自らの本質と向き合いながら日々何かを生み出しているのだろう。

だからこそ、ベースとなる文化の構築のために肥やしを費やし、コア・コンピタンスたるものを育てていくことが大切なのだと思う。